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メアリー -Mary-

コミティアを中心に活動する創作サークル『メアリー』のブログです はじめての方は『このブログについて』へどうぞ!

霧の街の客人2

桃ノ木です!
稲見晶さんのコラボ小説、前回からの続きです♪

前編はこちら




 同じころ、メトカーフの屋敷ではダグラスが懸命にロザリーをなだめていた。
「ダグラス、イラは大丈夫だろうか。道を渡れなかったり、人ごみで迷子になったり、可愛いから連れ去られたりしていないだろうか」
「落ち着け。見たところ彼女ももういい大人だろう」
 紅茶を勧めると、ロザリーは一口それを飲んでから答えた。
「ああ。百……、まだ二百年は生きていなかったかな」
「……私より年上じゃないか」
 まだ3つの子どもなんだ、と言うのと同じ調子で言うロザリーに、心から呆れた声が出た。
 イラが出かけてから、ロザリーの顔にはじめて少し笑みが戻った。
「まあ、その年月のほとんどは、人里離れたところで私と引きこもっていたのだけれどね」
「ちょっと自慢げに言うな!」





 客人だからということで少し遠慮していたが、もう構うものか。そもそもこいつの側から遠慮するような態度が微塵も見えない。
 ロザリーは気を悪くしたふうもなく、「というわけで、私はイラが心配なのだよ」と続けた。
「はあ……」
 こいつの話を聞いていると、ため息が際限なく生まれそうだ。
「君のメイドを信じていないわけではないのだけれどね。それ以上に彼女のことを案じてしまう」
 閉め切った窓から外を見通すように、ロザリーの目が遠くなった。
「……それならトマスに彼女たちを見守らせよう。何かあればこちらに伝わる」

「トマス、聞いていたな?」
「はい」
 トマスはダグラスの影に戻り、そのままメイドたちの気配をたどっていった。
「……今のは?」
 ロザリーが我が目を疑うように瞬く。
「私の使役する影だ。普段は従者として働かせているが、その他にも色々とやってくれる」
「なるほど、そのようなことができるのだね」
 ロザリーは感心した顔でカップを口に運んだ。
「お前もできるんじゃないか?」
「さあ、あちらではできるという話はなかったな」
「そうか。……ともかく、これで少しは落ちついて話ができるだろう」
「ああ、感謝するよ」

 ひそかにトマスに見守られながら、キアイラとイラは街を歩いていた。
「いつも紅茶を買っているお店はここで、あっちにはパンやお菓子を売るお店があって……」
「とても、賑やかなのですね……」
 イラは目を円くしてあたりを見回していたが、不意に「まあ!」と感嘆の声を上げた。
「まだ水仙が咲いているのですか? 見たことのない花もたくさん……!」
 視線の先には花屋がある。この時期に、色とりどりの花を並べていた。
「温室で育ててるんですよ」
 イラに教えられることがあって、キアイラは気をよくした。
「温室? それはどういったものですか?」
「えーっと、暖かい建物? を建てて、その中に畑をつくって……」
「畑、ですか? 建物の中に……?」
 イラは首をひねる。キアイラのほうも、頭の中にイメージはあるものの、改めて説明するのは難しい。しばらく考えて、「そうだ!」と顔を輝かせた。
「今から見に行きましょう! トマスさんも遅くなってもいいって言ってくれましたし!」
 そうしてイラの手を引き、植物園の方角へと足を進めた。

 30分ほど歩き、木々の立ち並ぶ様子が見えはじめた。キアイラは無事にたどりつけたことにほっと息をつく。
 植物園に入ってまっすぐ進むと、巨大な温室がそびえ立つ。
「これは……、ガラス? こんなに大きな……」
 イラはぽかんとその全容を見上げた。
「中もすごいんですよ、入りましょう!」
 足を踏み入れると、むっとするほどの熱気に包まれる。
「夏みたいです!」とイラは驚嘆の声をあげた。
「南の国の植物なんかを集めて、育ててるんですよ」
 すごいでしょう、と自分のものであるかのように得意げなキアイラ。イラは興味津々にあたりを眺めた。

 キアイラが気づくと、またもやイラが隣にいない。あたりを見渡したところ、彼女は白く咲き誇る蘭に向かって手を伸ばしていた。
「イ、イラさん、待って! あと、摘んじゃダメです!」
 イラはすぐに手を引っ込めてキアイラに顔を向ける。
「すみません、知らない花があったので、つい……」
 キアイラは手を伸ばして彼女の手をとった。
「もう、はぐれちゃいますよ!」
 そう言ったところでふとキアイラの顔が緩む。
「キアイラさん?」
「……あっ、別にその、なんでもないです!」
 いったんはそう否定したものの、すぐに彼女は再び口を開いた。
「えっと、前にここに来たとき、同じようにご主人に手をつないでもらってたんです。はぐれると危ないからって」
「そうだったのですね」とイラは笑んだ。

「……うん?」
 トマスからの報告を受けて、ダグラスは怪訝な顔をした。
「ロザリー。どうやら彼女たちは植物園にいるらしい」
「植物園か。イラは花が好きだからね。……いや、あれは私のためでもあるのかな」
 ダグラスは少しその言葉の意味を考え、やがて思い至る。
「確か、調香師をしていると言っていたな」
「ああ。普段は香水を作っているよ。君に似合うものも作ってみようか」
「ぜひ頼む。できれば女性に受けの良さそうなものにしてくれ」
 女性にな、とダグラスは念を押す。
「わかったよ」
 ロザリーは苦笑してうなずいた。

 ひと呼吸ほど間を置いて、ロザリーが口を開く。
「君は少し、変わった香水を付けているのかい? それとも香を焚いているのかな」
「いや?」
 ダグラスは眉を上げて答えた。
「それなら失礼。君から煙のような甘い香りがするものだから」
 煙のような、と聞いて心当たりを見つけた。
「おそらく葉巻の匂いだろう」
 ロザリーは頷き、目を閉じて考え込むように深く呼吸する。
「なるほど、葉巻か。君自身の匂いが覆われているようだね。……香水を作らせてもらう前に、少々無躾な頼み事をしてもいいかい?」

 日が暮れる頃になって、メイド二人は屋敷へと戻ってきた。
「おや、お帰りなさい」
 先回りして帰ってきていたトマスが迎える。
「ご主人は上ですか?」
「はい。……あ、でも今は入らないほうがいいかもしれませんね」
「え?」と足を止めたイラとは対照的に、キアイラはトマスの後の言葉を聞かず階段を駆け上った。

「ただいま戻りました、ごしゅじー……んん!?」
 ドアを開けたキアイラはそのままの姿勢で固まった。
 ロザリーが椅子に座ったダグラスの肩に手をかけ、その首筋に唇を触れんばかりに近づけている。
 そのかすかな呼吸に、ダグラスは細い眉をぴくりと動かした。

「な、なにやってるんですかあ!」
 二人の視線が慌てたようにキアイラに流れる。キアイラは体当たりするほどの勢いで彼をダグラスから引き離した。
「お、おい、キアイラ、誤解するな、これは……」
「ごっ、ご主人の血、飲んじゃだめです! その、エインズワース様までご主人みたいな仏頂面になっちゃいますよ!」
 ロザリーを見上げて言い募るキアイラ。
 ああ、そっちか、と吸血鬼二人はなんとなく気が抜けた思いになる。キアイラはそれでも気が収まらないようで口調も荒く続けた。
「の、飲みたいなら、私の血、飲んでいいですから! だから、……だから、ご主人はダメです!」
 ロザリーは驚いて彼女を見る。キアイラは口を引き結んで彼を見上げていた。
 ちょうどそのとき、イラがトマスに連れられて入ってきた。

「ああ、おかえり、イラ。少しだけそこで待っていてくれるかい」
 ロザリーは笑顔で告げてキアイラに向き直った。
「紛らわしいことをしてしまってすまないね。香水を作るために、彼の匂いを確かめさせてもらっていたんだ。首の後ろはその人の匂いがいちばんよく現れるからね」
「え? ……わ、わーっ、すみません!」
「構わないさ。ただ、血をくれると言うのならば、もらっておこうかな」
 一歩近づくロザリーに、キアイラは「えっ」と怯んだ。
「おい……」
 ダグラスが椅子から腰を浮かせる。
「あの、ロザリー様、血ならば私が……」
 イラがロザリーのもとへと足を速める。
「君に痛い思いをさせるわけにはいかないじゃないか」
 ロザリーは涼しい顔で言い放った。

 その言葉にダグラスが大股で歩み寄る。
「それはこっちも同じことだ!」
「わわっ!?」
 ダグラスはキアイラの体を自分のほうへ引き寄せた。
「ああ、それは残念だ」
 鋭く睨む視線を受け流して笑うロザリーに、ダグラスは自分がからかわれたことに気づく。
「お前は……」
「ロ、ロザリー様、ご冗談が過ぎます。キアイラさんにそのような……!」
 険しいイラの声が割って入った。眉を寄せる彼女に見据えられ、ロザリーがたじろぐ。
「イラ、これは、ええと……。……いや、すまない」
 ロザリーはそれから眉を下げてキアイラを向いた。
「怖い思いをさせてしまって悪かったね。その……、許してもらえるかい」
「は、はい……」
 キアイラはおずおずと答える。やや落ち着きを取り戻し、ダグラスの手が自分に触れたままであることに顔を赤らめた。同時にダグラスもそのことに気付き、半ば押しやるように手を離す。
「この件はもういい。お前は夕食の支度に行け」
「は、はい、ご主人!」
 キアイラはぱたぱたと部屋を出て行った。
 
 夕食は少し気まずい空気で始まった。
 イラは食事をとりながらも、給仕をしているキアイラをちらちらと見遣る。
「あ、あの、キアイラさん、このお肉にかかっているソース、とてもおいしいです。後で作り方を教えてもらえますか?」
「はい、もちろん!」
 料理を褒められてキアイラの足取りが軽くなる。
 その背中が台所に消えた、と思った瞬間、「きゃー!」という悲鳴とともに降り注ぐ金属音が聞こえた。
「キアイラさん!」
 慌てて席を立とうとするイラを「イラさんはここにいらしてください」と押し止め、トマスが駆けて行った。
「……何をしているんだ、あいつは」
 ダグラスが頭を抱える。
 食堂の3人が固唾をのんで待っていると、やがてキアイラが「なにもありませんでしたよ?」と言わんばかりの様子を装って、次の皿を運んできた。
「あの……、大丈夫ですか?」
「はい! エインズワース様とイラさんの分は無事ですから、安心してください!」
「おい、私のはどうなっているんだ……」
 元気よく答えるキアイラに、ダグラスが尋ねる。
「えーっと……、モ、モンダイアリマセン……」
 キアイラは主人から思い切り目を逸らして返答した。

 その後の2、3皿も滞りなく出された。ただ、最後のデザートが出される段になって、ダグラスは閉口した。
 キアイラが用意していたものはレモンメレンゲパイだった。それはいい。しっかりと泡立てた卵白が潰れないよう、そしてこんがりと焼き目がつくよう、気を遣って作ったのだろう。それもわかる。
 大きな器で作ったものを切り分けたようで、ロザリーとイラの前にはふんわりとふくらみ、爽やかな香りを漂わせるメレンゲパイがある。それが全員分用意されていたならば、褒めてやってもよかっただろう。
 ダグラスの前に置かれたのは、スープでも飲むような深皿だった。中には砕けたメレンゲとカスタードフィリングの混ざり合った何かが入っている。
 キアイラは素知らぬ顔をして出そうとしていたが、見逃せるわけもない。
「おい、これは……」
「ご主人のは、ちょっと多めにしておきました!」
「……そういう問題じゃない」
 これ以上客人を待たせることもできない。説教は後だな、とダグラスは観念してスプーンを取った。
 味は悪くなかったのがせめてもの幸いだ。
 
 キアイラが台所に下がって食事をとっている間はイラも食堂に残っていた。
「気詰まりかもしれないが、しばらくの間辛抱していてくれ」
「いいえ、そんな……」
 ダグラスの言葉に、イラは控えめに首をふった。
 トマスがそれぞれにワインを用意する。
「いい香りだ」
 ロザリーに続いてイラもグラスを傾けた。
「ええ」
 無意識のうちに気がかりな顔で彼女を見ていたダグラスは息をつく。
「ああ、そちらのメイドは大丈夫なんだな」
「イラがどうかしたかい?」
「いや、彼女がというか、キアイラの方なんだが……」
 どう説明したものかと首をひねる。

「あいつは酒を飲むと、こう、なんというか……、やたらと甘えてきて……」
 ため息をつくダグラスに、ロザリーは声をあげて笑った。
「かわいらしいじゃないか。そうだ、イラ、君も少し甘えてみてくれないかい」
「な、何をおっしゃっているんですか、ロザリー様」
 顔を赤らめるイラをにこにこと見つめ、ロザリーは「それで何の話だったかな、ダグラス」と首を傾げた。
「……仲が良いようで何よりだ」
「そうだろう?」
 皮肉を込めて言ったが通じた様子はない。
「君も手放したくない存在がいるのならば、早く気持ちを伝えておいたほうが良い」
 灰色の笑う瞳がダグラスを見た。
「……誰のことだ?」
「さあ、誰だろうね。ひとつ言っておくと、私が手遅れにならなかったのは、ただ幸運あってのことだよ」
 一瞬だけイラの顔が曇ったのをダグラスは見てとった。

「ロザリー、その……」
「だからイラ、堂々と私に甘えておいで」
「……そんなことをおっしゃってほだそうとなさっても駄目です、ロザリー様」
 イラは頑なに首を振る。
「家では甘えてくれるのにね」
「いえ、そんな……っ!」
 イラの頬に瞬時に赤みが増す。
 なぜ自分の屋敷でこんなに居心地の悪い思いをしなければならないんだ。ダグラスはワインをあおった。

「ご主人、お夕飯いただきましたー」
 ちょうど入ってきたキアイラになぜか安心してしまう。
「じゃあイラさんをご案内しますね」
「ああ、頼む」
「お願いします、キアイラさん」
 椅子を立とうとしたイラをロザリーが呼び止める。
「はい、なんでしょう?」
 ロザリーは彼女の頭を抱き寄せ、その頬に軽く唇を寄せた。
 イラが弾かれたように背を伸ばす。
 ダグラスとキアイラはその様子を呆気にとられて見るばかりだった。
「ロ、ロザリー様! こんな、こんな人目のある、ところで……」
「ほんの挨拶じゃないか」
「も、もう……、知りません!」
 ぽかんと口を開けているキアイラに行きましょう、と告げてイラは足早にダイニングを出ようとした。
「う、あ、はい」
 キアイラも慌てて後を追う。

 そのまま居間へ向かうかと思われたイラの背中は最後に振り返った。
「あ、あの、メトカーフ様……」
 顔はまだ赤い。彼女の目は強いてロザリーを見まいとしているようだ。
「なんだ?」
「……失礼いたします」
 イラは恥ずかしそうな顔を崩さないながらも軽くお辞儀をし、今度こそ走り去るようにダイニングから消えた。
「やはりイラは可愛いな。そう思うだろう?」
 まったく、こいつは。ダグラスはすっかり辟易してしまっていた。
 あまりにロザリーがイラのことばかり話すものだから、対抗心が生まれていたのだろうか。こっそりとトマスを呼びつけ、キアイラを呼んでくるように告げた。
(はいはい)
 少し呆れたように笑いながら、トマスはそう返事をした。

「キアイラさん、ご主人がお呼びです」
「え、何の用ですか!?」
 紅茶を飲みながら気楽に話をしていたキアイラは、ぎょっとしてトマスを見た。やっぱり夕飯のときのメレンゲパイのアレかしら。怒られるのはお客さんが帰ってからだと思ってたのに!
「イラさん、待っててくださいね……」
「え、ええ」
 まるで今生の別れのような様子に、トマスはつい苦笑を漏らした。
「キアイラさんが考えているほど悪い用件ではないかと……。まあ、行けばおわかりでしょう」

 ダイニングの扉がノックされる。
「お呼びですか、ご主人……」
 そこには怒られる予感に目を泳がせたキアイラの姿があった。
「ああ。……その、なんだ。たまにはねぎらってやろうと思ってな」
 予想外の言葉に「え?」とキアイラが視線を上げた。ダグラスはきまりの悪い思いを抱えながらも、たどたどしく伝える。
「一度しか言わんぞ。お前の働きには、その、ある程度は感謝してやらんでもない。ある程度は、な。以上だ」
 その言葉は不機嫌そうに眉を寄せたまま発せられた。
 キアイラはそれを二度、三度と頭の中で繰り返し、意味を把握して「えええ!?」と叫んだ。
「ど、どうしたんですかご主人!? 大丈夫ですか? 何か悪いものでも……って、もしかしてやっぱりあのデザートが!?」
 慌てふためく彼女の反応に、ダグラスは苦々しく舌打ちをする。
「うるさい! そんなことを言うなら金輪際、褒めてなどやるものか、下がれ!」
「ええー、じょ、冗談ですよー!」
「いいから出て行け!」
 ほとんどダイニングから放りだすようにダグラスはキアイラを居間へ戻らせた。

「……褒めてやろうとすればあれだ」
 扉を閉め、椅子にもたれかかるように座るダグラス。
「かわいいメイドじゃないか」
 面白がるように言うロザリーに、ダグラスは「やかましいだけだ」と首をふる。
 ロザリーはワイングラスを一度回して口に運んだ。
「あんなふうに、お互いに思ったことを言い合える関係というのは、少し羨ましいな」
「……そうか?」
 あんなにメイドを溺愛しているお前が何を言う、とダグラスは眉を寄せる。
「ああ。イラはいつも、私に対してどこか遠慮しているようでね。もっと甘えるなり我儘を言うなりしてほしいのだけれど」
「……それは無いものねだりというものだろう」
「……そうかい?」
 ロザリーは少し肩をすくめた。

 一方、居間ではキアイラとイラがお菓子とお茶をつまみながらざっくばらんなお喋りをしていた。
「もう、ご主人ってば、めずらしく褒めてくれたかと思えば怒るし、わけわかりません!」
「そんなことがあったのですね」
「エインズワース様の前だからって、あんなに無理して褒めてくれなくてもいいのに」
 焼き菓子に伸びたキアイラの指が少し迷う。
「……まあ、嬉しかったんですけど。嬉しかったんですけど!」
 ぽつりとつぶやき、さくさくさく、とむきになったようにウエハースをかじる。イラはその様子を微笑ましく見守っていた。

「ところで、エインズワース様っていっつもあんな感じなんですか?」
 指についた粉を落としながら何の気なしに尋ねた。
「あんな、とは?」とイラが紅茶を片手に首をかしげる。
「ほら、ダイニングから出るとき……」
 キアイラがそう続けるとイラは狼狽に目を逸らした。
「え、えっと……」
 ぎこちなくカップをソーサーに戻す。カチャン、と磁器が音を立てた。
「さ、さきほどのあれは、忘れてください……!」
 耳までも赤くするイラを見て、キアイラは悪戯な笑みを浮かべた。
「えー、いいじゃないですかー」
 面白がってつついてみると、ようやく「その、ええと、最近は、そうですね……」と消え入りそうな返事があった。
「ありがとうございます、ふふー」
 つい顔がにやにやとゆるんでしまう。

 そっか、エインズワース様とイラさん、向こうのお屋敷でも変わらないのね。
 私とご主人もいつか……?
 キアイラに目尻を下げて甘い言葉を囁きかけるダグラスの姿を想像する。
 あ、いや、それはなさそう、とすぐにキアイラは首をふって自分の考えを打ち消した。今晩のダイニングでだって、と思いかけてイラにキスをしていたロザリーを思い出す。キアイラの脳内で、ふとそれが自分自身とダグラスに置き換わった。
 急に顔が熱くなってしまい、キアイラも自分の頬に両手を当てた。
「ど、どうしてキアイラさんまで赤くなるんですか!」
「なんでもないです、大丈夫です!」
 二人のメイドはそれぞれに、恥ずかしさと頬の熱さを扱いあぐねてあわあわとしていた。

 居間の扉が軽くノックされた。
「ふぁ、はいっ!」
「……どうしたんです、お二人してそんな顔をして」
 姿を見せたのはトマスだった。彼は「……菓子にブランデーでも入っていましたか」と続ける。
「い、いえ、そういうわけでは……」
「お話中申し訳ありませんが、そろそろ馬車の時間です。イラさんはもとの服へお着替えをお願いします。済んだらまたダイニングへいらしてください」
「はい」

 メイド服からサテンのドレスへ。心なしか身に纏う雰囲気も変わったようだ。
「それでは行きましょうか、キアイラさん」
「は、はいっ」
 ダイニングの扉を開けると、ロザリーが待ち兼ねていたようにイラの手を取って導く。
「楽しかったかい、イラ?」
「ええ、とても」
「それはよかった」
 ダグラスとキアイラは、時空を超えた客人二人を見送る。
「今日はお招きをありがとう。今度はぜひ、私達の家にも遊びに来てくれ。この世界と比べれば少しばかり不便かもしれないが、心から歓迎するよ」
「ああ、それではまた今度」
「イラさん、また、またお会いしましょうね!」
「ええ、ぜひ!」
 トマスに案内され、ロザリーとイラは馬車に乗り込んだ。その後ろ姿が見えなくなるのを見送り、ダグラスとキアイラは屋敷へ戻る。

 ダグラスは椅子に背をもたせかけ、葉巻を深く吸った。
「変なやつだったな」
「あなたもなかなか楽しんでいらしたように見えましたが」
 傍らに立つトマスの言葉に、ダグラスは「ふん」とぶっきらぼうに応える。
「あ、あの、ご主人……」
「なんだ、いたのか?」
 お前も早く部屋に戻れ、と指先の葉巻で扉を指し示した。キアイラは首を振り、彼の顔をじっと見つめる。
「あの、さっきは失礼なこと言っちゃって、ごめんなさい! で、褒めてくれてありがとうございました!」
「そのことならもういい」
 濃い煙がダグラスの姿をかすませる。
「その、ご主人はお世辞とかだったのかもしれませんけど、私は嬉しかったです! それだけ言おうと思って!」

 彼に背を向けて立ち去りかけたキアイラを呼び止める声があった。
「待て。私は別に、来客がいるからといってお前に世辞など言わんぞ」
「え?」と足を止めるキアイラにダグラスは続ける。
「あいつがあまりに自分のメイドのことばかり話すからな。お前も私にとっては、なんだ、そう悪いものじゃないと言っておきたくなっただけだ」
 それだけを言うと、彼は再び葉巻をくゆらせる。
「あ、あの……、じゃあ私はこれで! 失礼しました!」
 真っ赤になった顔を隠すようにキアイラは部屋を走り出ていった。
 ダグラスは「……はあ」と椅子に深くかける。
「……明日から調子に乗らないといいがな」
 照れ隠しのようにとってつけたその言葉を、トマスは苦笑いを浮かべて聞いた。

 数日が経ち、時空を超えた郵便がメトカーフの屋敷に届けられ、返事が送り出される。
 湖の畔の静かな家で、ロザリーとイラはそれを受け取った。
 封筒の中には二通の手紙。ダグラスからロザリーへ宛てたもの、そしてキアイラからイラへ宛てたもの。二人はそれぞれ自分への便箋を開く。

——ロザリー=エインズワース閣下
 先日は楽しんでもらえたようで何よりだ。
 香水も送っていただき、感謝する。周囲の評判も上々で、何人かからはどこで手に入れたものか尋ねられた。
 キアイラにまで気を遣ってもらったようだが、彼女には香水はまだ早いのではないだろうか。瓶をひっくり返すのがおちだろうから、しばらくの間は私が預かることにした。早いところ、彼女にも落ち着きが出てくれるといいのだが……。
 すまない、つい愚痴めいたことを書いてしまった。今度はぜひ、そちらへ遊びに行かせてくれ。
  ダグラス・メトカーフ——

——イラさんへ
 私のほうこそ、この間はとっても楽しかったです! また町を歩いたり、おしゃべりしたりしましょう!
 そうそう、香水もありがとうございました! エインズワース様にお礼を伝えてもらえますか? でもご主人ってばひどいんですよ! 「お前にはまだ早い」って取りあげられちゃったんです。
 私が立派なレディになったら返してくれるそうなので、今度は、レディになるにはどうしたらいいか教えてください!
  キアイラ——

 手紙を読み終えた二人は顔を見合わせてくすくすと笑う。
「なんだか、どこかで聞いたような話だと思わないかい?」
「ええ。……ロザリー様に認めていただけるように、頭を悩ませたものでございます」
 ロザリーは彼女の頭を抱いて髪に唇を寄せる。
「その甲斐は充分にあったようだね」
 イラはくすぐったそうに笑う。
「キアイラさんもきっと、すぐに素敵なレディになられることでしょう」
「ああ、ダグラスの驚く顔は見物だろうな」
 ロザリーは唇に笑みを浮かべ、封筒を手に立ちあがる。
「それでは、招待状を書いてくるよ」


END



稲見さん、素敵な小説を本当にありがとうございました!

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